包丁研ぎ

人はストレスが溜まると普段やらない事をすると云うが、僕は声が出なくなって包丁研ぎをするようになった。
研いでいると不思議と落ち着くし楽しい。
良く切れるようになったピカピカの包丁やナイフを眺めるのも気持ちが良い。
そんな事をし乍ら思い出したんだけど、子供の頃は行商の研ぎ屋が居た。羅宇屋も居た。
祖母の家の前は小さな広場になっていたので、そういう人達が店を広げ易かったのだろう、
いろんな行商人が来ていた。皆んな年寄りだった。
中に蜆売りのお婆さんがいて、挨拶すると「どんぶり持っといで」と言っていつも丼いっぱいの蜆をくれた。
小柄でしわくちゃで真っ黒なそのお婆さんは煙管で煙草を喫んでいたので羅宇屋のお爺さんと仲が良かった。
夕方になると来る紙芝居のおじさんはその羅宇屋のお爺さんの親戚らしかった。
どの行商人も帰る時は広場の横にあるお稲荷さんに手を合わせていた。

あの頃住んでいた本牧小港の家の前は直ぐ海で、隣の漁師家に年の近い子供がいた。
その子はお菓子の代わりに生の人参を食べていた。
僕も真似をして人参を丸かじりするようになった。ボリボリ食べる人参はとても甘く美味しかった。
あー、いろんな事を思い出す。もう一回包丁研ごう。